だいしろぐ

大志郎の日記。面白い人の話を聞いたり、アイディアの備忘録も兼ねて

ブラック企業正社員から派遣、ネカフェホームレスから生活保護。Yoshikiさんに聞く「働いているのに困窮する」ということ

「働きながらホームレス」の増加

今回は、2017年3月に働きながも生活困窮され、ホームレス状態におちいり、都内の支援団体と繋がって現在「生活保護制度」を利用しながら生活を再建中のYoshikiさんにお話をうかがった。Yoshikiさんは2015年より現在まで、ホームレス状態であってもはてなブログ上にてブログを運営。ご自身の労働環境や困窮の状態なども、そのつど記事として公開されている方だ。

Yoshikiさんのブログはこちら
www.continue-is-power.com

近年、路上で寝泊まりされている「わかりやすいホームレス」の方は確かに減少してきている。また(十分とはいえないにしろ)公的な支援制度は整いつつあるのも事実だ。そのほか「貧困化」が進んでいるといわれる「子ども」「女性」についても、誰もが関心を寄せやすい。

そんな中で、絶対数の増加と関心の「広がらなさ」が共に進んでいると個人的に考えているのが、Yoshikiさんのような「働きながら困窮される男性層」ではないだろうか。失業保険をはじめとした正規雇用前提のセーフティネットに乗れず、なまじ「働けて」しまい、生活能力もあり、相対的に「強者」と見られやすい男性でもあるので困窮度が可視化されづらい層が、支援現場にいる肌感覚として、ひたひたと増えているのではないかと思う。

また、Yoshikiさんは何年もブログを収益化しつつ運営され(生活が困窮されている状態でも一貫して)そこから定期的に収入を得ているというのも興味深い。(当然ながらYoshikiさんはその収入を適正に申告されている。念のため)

最近「メルカリ」などフリマアプリを使い、生活保護家庭が福祉事務所側に捕捉されづらい形で収入を得ているという記事(生活保護受給者がわざわざ「メルカリで現金を落札」していた理由:日刊SPA! )が週刊誌に出ていたが、記事の真偽はさておくとして確かに制度の想定が遅れている方向ではあるのだろう。

このような関心・動機から掲載の許可をいただき、今に至る経緯をおうかがいした。

「ブラック企業正社員」から「派遣」へ

Yoshikiさんは1986年生まれの現在31歳。東北地方の出身で、地元の高校を卒業後、他県の専門学校に進学。卒業後、そのままその県に本社があるパチンコ店に就職する。

「勤務時間が不規則なのに加え、社内の人間関係が複雑で出世レースも激しい会社でした。大きかったのは2011年の震災です。当時いわき市にあったお店は3月の被災後、一時避難し、4月には再オープンしました。ただこの時、原発が近かったので近隣の住民はみんな賠償金を貰っていたんです。地震の影響で仕事はなく、暇な彼らが何をやるかというとパチンコをやるんです」

「お店は連日大繁盛。それをいいことに、店側は当たりをしぼって回収に走る。そんな様子を見ていて『こんなことをしたくないな』『こんな店で働きたくないな』と思ったんです。一度店側に悪感情を持ってしまうと今度は、荒れていることも多いお客さんも嫌な感じに見えるようになりました」

f:id:dai46u:20170531194807j:plain お話をうかがったYoshikiさん

「そうこうしているうちに、心療内科へ掛かるようになりました。薬などを出してもらっていたのですが、当時はそこも満杯で、次第に通うのが嫌になりました。『もう環境を変えなければ』と思い、6年務めた会社を辞めました」

東京に興味があったYoshikiさんは27歳の時に上京。アパートを借り、携帯電話販売代理店の正社員の職を見つける。だが、これがいわゆる「ブラック企業」だった。

「入社前に研修として、同時期に採用された30名くらいと一緒に、山奥にある保養所みたいなところに放り込まれました。そこで5泊6日、まるで軍隊みたいに座学や30㎞ウォーキング、会社の社訓を超高速で暗唱させられるなどを強いられました」

「ただ、本当に大変なのは仕事が始まってからでした。販売員として秋葉原の大手家電量販店の携帯コーナーに派遣されたのですが、店自体が『よそ者』を受け付けない感じだったんです。自分は販売代理店の所属なので、通信キャリアの人間ではないし、その店に直接常駐派遣されている人間でもない。すごく肩身が狭い『よそ者』として、ちょっと売り場の立ち位置を間違えただけで『そこに立っているんじゃねえよ!』と怒鳴られる。常駐派遣されている人からは『お前は、数字(売り上げ)取れなかったら存在意義がないからな』とどやされる。不条理な社内ルールで怒られたり、まわりが3時間睡眠で働いているらしく自分にもそれを強制してくる」

「こんな環境なので一件も契約がとれず、またぼろくそにいわれ、結局配属4日目で『もう無理です』といって辞めました」

「アパート生活」から「住み込み」へ

そこからYoshikiさんは派遣の仕事を転々とする。最初は再び同じ職種である携帯ショップ販売コーナーの店員をやり、ここは二ヶ月で辞める。
「接客業に疲れていて、自分からお客さんに声をかけることができなかったんです。そこの上司からも向いていないといわれ、直接の接客業はもう無理だと見切りをつけました」

そこからコールセンターのオペレーターの派遣に移り、そこを辞めて工場勤務、それを辞めて再び別のコールセンター。求人雑誌を作るPCオペレーター。コールセンター。工場。派遣会社のコーディネーターも一度。Yoshikiさん自身も「やりすぎてわからない」というほど職を転々とし、登録済みの派遣会社は10社を越えるという。

「今現在医療に掛かっている要因のひとつでもあるのですが、強いストレスがかかると一気に仕事にいけなくなるんです。」
「(『正社員を探されないのですか?』という私の問いに)正社員にしても、選ばなければブラック企業の求人はあるのですが、もうああいう会社で勤めるのは無理だと思いました」

2016年、東京アパートの更新期限がきたことに加え、当時ブログ界隈で話題になっていた「地方移住」が気になったYoshikiさんは、なじみのある地方都市へ引っ越し、新たにアパートを借りてやはり派遣で働きはじめる。ただ、やはり地方都市で車なしで生活するのがきつく、数ヶ月で仕事を辞め、Twitter上で知り合った方に紹介されて、地方のシェアハウスにアパートを維持したまま二ヶ月ほど滞在する。

そうして『そろそろ働きたい』『働くなら懐かしくなった都会で』とシェアハウスを出てアパートを引き払ったYoshikiさんが見つけた仕事が、横浜の工場での住み込みの仕事だった。

ここではじめてYoshikiさんは安定した住まいをなくす。

壊れたスマホを修理するその工場での仕事は、スマホ自体の生産量で人員が調整された。結局Yoshikiさんは4ヶ月務めた挙げ句、2016年12月にリストラされる。

次に見つけた仕事も、やはり横浜の工場で、住み込みの仕事だった。 「配属された部署は、人間係がすごく悪かったんです。外国籍の方が好き放題にやっているところで、決められた製造ルールを破っていることを自分が指摘すると怒りだし、ケンカになりました。上司にいっても改善されないので、派遣元の会社に状況を訴えて、結局三ヶ月で辞めました」

そこで再度上京。コールセンターの仕事を派遣で見つけ、今度はネットカフェで寝泊まりしながら通勤する。
この時点でYoshikiさんは広義のホームレス状態におちいった。

「ホームレス」から「生活保護」へ

しかしこの「広義のホームレス生活」は、思いも寄らなかったトラブルで突発的に終わりを告げる。

「給料を週払いで受け取るためにはネットからの申請が必要だったんです。ほんの1クリックで済む申請をうっかり忘れていて、週払いとして受け取れるはずの給料が振り込まれていませんでした。今まで派遣で働いている中でも給料の遅配はあったので最初は心配していなかったのですが、念のため電話したら事態が判明して。所持金がない状態で、泊まっていたネットカフェは翌日には出なければなりませんでした」

事情があり、実家に頼ることができないYoshikiさんはネット上でさまざま「助かるための情報」を探したという。

「ネットカフェから出てすぐ、大久保の公園のベンチでスマホから検索しました。土曜日なので、お金を貸してくれそうな社会福祉協議会は閉まっていました。また、よりそいホットラインなどいくつかの支援団体に電話したのですが繋がらず、野宿も覚悟する状況でした。ただ、ブログやTwitterで現状を書いたら、何人か心配のメッセージやお金を貸そうという申し出もいただいて、ありがたかったです」

「結局ネット上で炊き出しをやっている団体一覧リストを見つけて、その中で土曜日の14時から配食と路上相談をやっている『新宿ごはんプラス』を見つけました。発見したのが1時半だったので急いで都庁下へ向かい、路上相談には間に合って。ここで事情を話して、すぐ『つくろい東京ファンド』に繋いでもらい、シェルターに入居することができました」

こうしてYoshikiさんはホームレス状態を脱出し、現在「つくろい東京ファンド」のシェルターに入居しながら、生活保護制度を使い、アパート生活を含めた自立に向けての活動をされている。
「週払いの申請さえ忘れていなければ、まだネットカフェでの暮らしを続けて、今のような落ち着いた状態にはなっていなかったと思うので。それを考えると、良い・悪いに何が転ぶのかわからないものですね」

ブログは一種のセーフティネットになりうるか

こうした変遷の中でもYoshikiさんは一貫してブログを続けていたという。

「もともとミクシィなどはやっていたのですが、本格的に収益化を含めたブログ運営をはじめたのは2014年頃からです。はてなブログで今と違うブログをやっていて、そのあとWordpressに移行したのですが、ある時それを間違えて消してしまったんですね。まぁ『それはしょうがないか』と思い直し、今のブログ(Yoshikiの日記)をスタートさせました」

「収益化については、開始初月こそGoogleAdSenseの支払い規定額に届かなかったのですが、次月からコンスタントに貰えるようになりました。ただ、数万単位の金額を稼げるようになるには2年くらいかかりましたね」

ブログの収益化と、それによる経済的独立(いわゆる「ブログ飯」)は、定期的に(たいがい内野は熱く、外野は冷笑的に)話題にのぼるトピックだ。Yoshikiさんは実際ブログで一定の収入を得ている(重ねて言及するが、これらは適正に申告されている)。 困窮状態にあったYoshikiさんにとって、ブログは一種のセーフティネット足り得たのだろうか。

「ブログからの収入は、それ自体では生活を成り立たせられないものの、命綱になっていたという感覚がありますね。これがなければ、もっと早い段階でホームレス状態におちいったと思います。ただ、くり返しになりますが、月数万稼げるようになるのは時間がかかります。自分は2015年1月に今のブログをスタートさせたのですが、当時はいわゆる『互助会』が盛んで、はてなブックマークを相互に付けたり付け返したりするなどしてホットエントリーに載るなどしていました。そんな背景があるからこそ今の状態があるので、これから新たに『ブログで稼ごう』という人は難しいのではないかと思います」

「ブログから新たに繋がった人間関係もあるので、人の繋がりという意味でも『セーフティネットとしてのブログ』はありかと思います。ただ、ある程度自分を切り売りできる人間でないと、こちらの方向でも厳しいとは思います」

予想はできていたが、なかなかシビアだな、と思った。(どうしても一般就労に結びつけない方に対する出口戦略のひとつとして機能するといい感じなのではないか、などと思ったこともあったもので)

お話をうかがって思ったことなど

以上、ここまでがYoshikiさんのお話となる。以下はお話をうかがいつつ考えたことをメモとして。

①ウェブ上の支援団体・炊き出しリストの重要性

Yoshikiさんを支援団体に繋げたこの手のリストだが、実際ネット上にいくつか散見されるものの、結構情報が更新されていなかったり見にくかったりしたものが多い。
などなど、文句があるなら自分で集約してみるほかないので、どうかちゃきちゃき作りましょう(白目)。

②30代が多角的に参加できる「居場所」の少なさ

生活困窮者を対象とする支援的コミュニティ(いわゆる居場所)は、どうしても(当事者層の偏りを反映して)高齢者向きに振れがちだ。あと、だいたい常連で固着する。もし30代を想定した場合、もっと「支援っぽくない」文脈での多様な居場所は考えられるべき。一例としてレトロゲームという文脈を用いた場所にお邪魔した時のことは下記過去記事。

www.dai46u.com

③出口として「就労」が見つからない難しさ

やっぱり(というか結局は)出口としての「仕事」を見つけるのは難しいよね、というお話。もちろん「選ばなければブラック企業の求人はある(Yoshikiさん)」わけだが、心身を壊してようやく勤務可能なものを「仕事」とはとても呼べないだろう。また、彼と同じように「派遣で出るような職種」をやり尽くしてしまい、なかなか将来への展望が見えにくくなってしまう状態もよく聞く。

「ブログでごはん」は現実的ではない。けれど、この「どこにもいけなさ」を乗り越えるものは、おそらく今は「非現実的」「非常識」と呼ばれるものから立ち上がってくるはずなわけで。(「フリマアプリで現金を売るお仕事」みたいなものだって、当人が健康で文化的で幸せに暮らせる仕事なら別に構わないのだ)
社会で一見変な商売が立ち上がったとしても(まぁ犯罪でない限り)、どん引きせず注目していきたい。